人の気持ちを考えてばっかりいるとヘドが出ますよ
こんにちは、ぽちです。
先日、胃の具合が悪かったので「神経性胃炎」のことについてネットサーフィンをしていると、図らずも、「失業」「貯金ゼロ」「老後」・・という重たいテーマの記事が目に入ってしまい、ますます胃の具合が悪くなってしまいましたww
たぶん「神経性胃炎」⇒「ストレス」⇒「ストレスの原因」と派生してそんな流れになってしまったんでしょう。
そんなネットサーフィンをしている中、生活困窮者についての記事も少なからず目に入ります。私も決してこういう人たちを高みから見ることのできない立場ですので、あたかも将来の自分を見ているかのようで、何ともやりきれない気になります。
しかし、こういう気持ちになることが「人の気持ちを考える優しさ」なんだろうか?
こんなことしても誰も幸せにならないのに。
そもそも「人の気持ちを考える」そのこと自体にどれほどの意味があるのだろうか?
今回は、そんなテーマをつらつら書きたいと思います。
1 人は「自分の理解できる人」の気持ちしか考えられない
⑴ 「人の気持ちを考えられない奴」と感じる人は沢山いる
日本では、学校時代から「人の気持ちを考える」ということは崇高な美徳として教育を受けます。かくいう僕もそういう教育を受けてきたし、今でも一般論としてこの言葉の大切さの一端は理解しているつもりです。
しかし、世の中では「こいつ、人の気持ちを微塵も考えてない」と感じるような人間に会うことは決して珍しくありません。ひょっとしたら僕自身もそう思われているかもしれません。
どうしてこんなことがおこるのでしょう。
今の人間には道徳心や公共の精神が欠落しているから?
そういう回答は保守派の政治家等なら喜ぶかもしれませんが、僕はあんまり説得力を感じません。
⑵ 中島義道の「私の嫌いな10の人びと」
この問題を考える際にヒントになるのは、この本です。
自身も認めているように、中島義道という男は、かなりクセのある男で、「常識的な良識人」がこの人の本を読んだら、きっと胸糞が悪くなって即刻本をゴミ箱に放り捨てたくなるでしょう。それだけこの人は、世の中で美徳とされている価値観を攻撃してます。
たしかに、この人の本の内容は「ちょっと独りよがりで極端なところがあるな~」と思う節もあるんですが、常識や良識をちょっとナナメから見てみるには役に立つときがあります。今回のテーマも然り。
中島義道は、「他人の気持ちを考えろよ」という人間を作品の中でかなり嫌っています。彼の論拠はいろいろありますが、かいつまんでいうと
・そもそもアカの他人の気持ちを考えるのは、精神異常を引きおこすくらいの「苦行」である。暴走族の騒音に悩まされている人が、暴走族の気持ちを考えられるか?犯罪被害者が犯罪者の気持ちを考えられるか?
・こういう「きれいごと」を言う人間は、そこまで想像することはしない。彼らは自分の「理解できる」常識的な人の気持ちになれといってるにすぎず、結局それは多数派の少数派に対する抑圧にすぎない。
こんな感じでしょうか。ちょっと僕なりの作文を含んだ要約なので厳密には正確ではないかもしれませんが、概ねこんな内容だと思います。
彼の指摘については、多数派に対する「僻み」が交じった曲解も見え隠れしますので、全面的には肯定できませんが、これを以下のように解釈すると、まあ頷けます。
・人はそれぞれ「特異」な人生を歩んでいるのであり、すべての人の気持ちを考えることは不可能である
・したがって、自分は「どういう人の気持ちを考えるべきか」を常に取捨選択しているのであり、その選択は人によって異なる
・自分が人の気持ちを考えていたとしても、それは自分が選択した一部の人の気持ちにすぎないのだから、その気持ちを理解しない人がいたとしても、ある意味当然のことである
・だとすると、「自分はこの人よりも人の気持ちを考えている」と思うのは傲慢というものである
つまり、中島義道の考えは、「人はそれぞれ別の人生を歩んでいるんだ」という考えから出発しているものなんですね。この考えによれば、「こいつ、人の気持ちを考えていない」とムカつく人がいるのは自然なことであり、それを批判したい気持ちは分かるけど、その感情を強めることにあまり生産性がないということが分かります。
2 この言葉の使い方
どんないい言葉でも、その使い方によっては「正義」という名の凶器になります。
その理由から僕は「自己責任」という言葉があんまり好きではなくなってしまったんですが、それを記すとテーマから外れてしまうので、今回は「人に気持ちを考えろ」という言葉に絞って考えます。
⑴ 共感できる使い方
例えば、明確な共通目的があって、「その対象」のために努力しなくてはならない場合にこの言葉を使うときなどは、人の気持ちになるというのは、いい言葉だなと思うことが多いです。
例えば、スポーツや仕事でチームのプロジェクトを進行する際に、相手(仲間やお客など)の気持ちになってみんなの利益のために努力するのは大切なことです。
しかしこの種の「大切さ」は広く認識されていることであり、おそらく僕より深く理解している人も沢山いるはずですので、ここでは掘り下げません。
⑵ 僕が苦手な使い方
上記のように、共通の明確な目標を持つ人達が、自分たちが努力をするためにこの言葉を使うのではなく、この言葉の表面的な正しさを権威盾にして人を攻撃する場面を見ると、「人の気持ちを考えろ」という言葉があんまり好きではなくなってしまいます。
この点について具体的な話を少々。
僕がよく閲覧する有名なブログがあるんですが、そのブログの中で、ある自然災害で被害にあった人についての記事が出てきたんです。するとこんなコメントが続出して、その記事は大炎上。
「人の不幸でPVを稼ぐような人は消えてください」
「被災した人の気持ちを考えろ!カス!」
まあ、このブロガーさんは炎上傾向にあったので、こんな状況になるのは珍しくないんですが、さすがにこの種のコメントは見ていていい気分になりません。指摘にあるような被災者を愚弄するような内容やPV稼ぎのための演出など、(少なくとも僕には)見受けられませんでしたしね。
こういうコメントを書く人たちは、「消えてください」とか「カス」といわれる人の気持ちは考えないんですかね?もし「自分の気に入らない人の気持ちを考えるつもりはない」というなら、そんな人が安易にこの言葉で人を説教できないはずなんですが。
それでもこういう人たちが「人の気持ちを考えろ」という批判ができるのは、「被災者の人の気持ちを考える」という価値観が、それ自体、反論しがたい「正義」であり権威があるからです。
自分は正義なのだから相手の気持ちなど考える必要はないし、その正義には権威があるから多少自分の言動がいき過ぎても「安心」ということなんですかね。この種の人たちには上に挙げた中島義道の批判が相応しいのかもしれません。
もっとも、こういうコメントを書く人は、リアルでは人の気持ちを考える「いい人」なのかもしれませんけどね。正義に寄り添って人を叩くのは、そんな無理を重ねている自分を権威づけたいと思っているから、という見方もできなくはないです。まあ、そうだとしても、こういう言動には共感できませんが・・。
3 この言葉との付き合い方
ちょっと話がずれてきてしまいました。「人の気持ちを考える」大切さについてでしたね。
先ほども記したように、自分が大事だと思う対象のために人の気持ちを考えて行動するると、周りの利益になるし、本人も充実感が湧いてくるはずです。そういう意味の大切さは、世の中で広く認識されているし、僕なんかが講釈を垂れるまでもないでしょう。
しかし、やっぱりそういうことができる範囲は限られてるんです。
道を行っているような偉人はともかく、凡人は自分の手の届く限られた範囲の人間の気持ちを考えるだけで精一杯です。僕なんかそれすらできているか怪しいんだからw
そんな人間が、自分の「守備範囲外」の人の気持ちを無理に理解しようと思うと、中島義道が言うように精神異常というかヘドが出るような状態になるまで消耗してしまうでしょう。そうまでして人の気持ちを考えても、あまり意味はない気がするんです。
といって理解できない人を粗末に扱っていいのかというとやっぱり違う。
自分は限られた人の気持ちにしかなれないのだから、そういう人がいても「お互いさま」なんです。一見「ムカつく」その人も、実は自分には想像もできない場面で「人の気持ち」になっているのかもしれない。にもかかわらず「人の気持ちを考えている自分」を権威づけて相手の落ち度を探し始めると・・自分も相手もイライラするし、まあロクなことはありません。
その意味で、「人の気持ちを考える」ことは大事だけど、その限界を知ることも同じくらい大事なんじゃないかな、と僕は思っているんです。すくなくとも腹の立つ人と接するときには、こう考えた方が精神衛生上よろしいww
4 まとめ
こういう独りよがりの雑記をまとめるのは難しいのですが、あえていうと
・人の気持ちを考えることはもちろん大事
・しかし(おそらく自分が思っている以上に)自分と他人は違う
・つまり、人の気持ちになれる場面は実は限られており、無理にその範囲を広げると中島義道がいうように気が狂ってしまう
・ならば自分のその限界を受け入れて、逆に理解できない人に「お互いさま」の精神で寛容に接するほうが精神衛生上よろしい
ということでしょうか。
今回のテーマについての僕の思考の形は、今のところこんなところです。
こういうことを考えると「正しく生きる」って難しいな~って思いますよ、ホントに。
それでは、また('◇')ゞ