たばことじいちゃんの思い出から 嫌煙権についてナナメに考えてみる
こんにちは、ぽちです。
今回はたばこのおなはし。
僕自身はたばこを吸いませんが、たばこの煙がそんなに嫌いなわけではありません。そんな自分が「嫌煙権」についてどう思っているのかをつらつら書いていきます。
嫌煙権という概念ができて久しいけど・・何でここまでたばこの煙が嫌がられるようになったんだろう?というのが僕の率直な感想です。そもそも、たばこも酒もはじめっから「おいしい」と感じている人がどれだけいるんだろうか?
もちろん個人差はあるけど、これらの好き嫌いは社会によって「刷り込まれている」部分が大きい気がします。
昭和の時代は、たばこは大人の「たしなみ」みたいなところがあって、吸わない奴は男じゃない、なんて雰囲気すらありました。
僕はそんな昭和世代の親に育てられたので、たばこに対する感情がそこまで悪いものではありません。といっても僕の両親は非禁煙者で、実際によく吸っていたのはウチのじいちゃんです。
【じいちゃんとたばこ】
じいちゃんは、もうだいぶ前に亡くなりましたが、たばこが好きだったんですよ。
僕が幼いころ、じいちゃんは僕のそばでいつもたばこを吸ってました。今では御法度なことなんでしょうが、僕にとってはいい思い出です。
僕は、じいちゃんが吸っているたばこの銘柄を見て、そのたばこの特徴をきくのが好きでした。
「これは軽すぎる」
「これは煙が甘ったるくて・・」
もちろん僕には何のことかわかりません。しかし、こうして話しているときが何とも寛ぐのです。僕がたばこの煙が嫌いではないのは、このときの思い出はあるからだと思います。
そんなじいちゃんとたばこについて思い出話を少々。
当時、僕は東京多摩市に住んでいました。
今はすっかり寂れてしまった豊ヶ丘商店街で、じいちゃんからよくお菓子を買ってもらってたんですね。商店街で2人で歩いていると、じいちゃんはポケットをもぞもぞさせています。どうやらたばこをきらしてしまった模様。
僕は牛乳屋の店先にある自動販売機を案内しました。
そこには見たこともない銘柄の箱がいっぱい陳列されていて、僕はじいちゃんがどれを選ぶのか興味津々様子をうかがってました。また、たばこのうんちくについてきけると楽しみにしてたわけです。
ところがじいちゃんは、銘柄を見るなり「ここはやめよう」と、その場を去ろうとしました。いつになく冷淡な態度です。
僕「味がイヤなの?」
じいちゃん「いや、試したことはない」
じゃあ、試してみればいいじゃないか、と僕は自動販売機の中の一つの商品を指さして「これ買ってみようよ」と勧めましたが、じいちゃんは聞き入れません。
こうなると小さい子の駄々がはじまります。
「買って、買ってぇ~!!」
泣き叫ぶ声がそこら中に広がります。
その声を聴いた牛乳屋の親父がでてきました。
親父「ボク、これは大人が買うものなんだから無茶いうんじゃないの!」
僕「いやだ~どんな味か試すの!!」
「いい加減にしろ!帰るぞ( ゚Д゚)」
いつもは温厚なじいちゃんが、顔を真っ赤にして自販機から僕を引きはがし、その場を去りました。
それにしても孫である僕に甘いはずのじいちゃんが、なぜあのとき僕の「せがみ」を聞き入れてくれなかったのか・・。
察しのいい人はもうお分かりですね。
あの自動販売機には「明るい家族計画」と表示されていたんです。
僕は、今でもたばこの自動販売機を見るたびに、このときの思い出がよみがえります。
【で、タイトルの話題に戻る】
そんなわけで僕自身はたばこには悪い印象はなく、副流煙にも割と寛大な方です。
しかしそんな僕でも、歩きタバコのような迷惑喫煙を見るとイラッとします。何故でしょう?
周りの人の健康を慮って憤っているから?
いやいや、少なくとも僕の場合、そんなカッコいい理由じゃありません。
そんな他人への思いやりではなく、「こいつは社会の枠組みから外れている」という不快感が根底にあるんだと思います。もちろん社会的なルールを守らない人間に対する憤りは大事ですが、僕の嫌煙思想がそんな全体主義だけで裏打ちされているとおもうとちょっと心許ないです。全体主義は「ご都合主義」でいい加減ですからね。
もちろん、なかには本当にたばこの煙を受けると具合が悪くなる経験をもっているなどで、心の底から周りの気持ちを配慮して迷惑喫煙に憤っている人もいるでしょう。
しかしそんな人でも、例えば、飲み会の席で半強制的に酒を飲まされている下戸の姿を見て、現在の迷惑喫煙と同じように怒る人がどれだけいるでしょう?
今でこそアルハラは許されないといわれてますけど、まだまだ「あ~ら、飲まされちゃったね~」で済ませる人が多いんじゃないですか(ちなみに僕は下戸なので、こういうシチュエーションはかなり不快です)。
・人が嫌がることを強要しているということ
・その行為が健康を害するものであること
という意味では、迷惑喫煙と変わらないと思うんですけど。
よく、たばこの煙は否がおうなく受けるものだけど、飲酒は本人の意思で飲むから違うとか、酒は百薬の長だから・・・、みたいな意見を聞くけど・・あんまり説得力ないですね。結論先にありきで理由を並べてる感じ。
飲酒が喫煙と比べて寛大なのは、飲酒者が世間の多数派で「酒の付き合いは社会で必要」という社会通念があるからです。もし迷惑喫煙に比べて「迷惑飲み」に対して寛容な人がいるとすれば、それは、ただそう考えた方が世間人として都合がよいと(無意識にでも)思っているだけなんじゃないかな。
そういう世間の都合に合わせた「正義」は、往々にして実際の被害者の気持ちを置いてけぼりにして、「たばこ」だから叩こう、というように「名目」に走ってしまいがちです。そういう問題点が気になったから、今回のようなタイトルにしたわけですよ。
たばこの煙が嫌いな人のために嫌煙権を主張するのは大いに結構。
でも、その正義が「真に人の気持ちを考えたやさしさ」からくるのか、それとも単なる社会の風潮に便乗した粛清感情なのか、僕自身含め、今一度見直してみるべきだと思います。